愛しすぎることの危険
昨日の休日は、図書館で半日過ごした。最近の休日は図書館通いが多い、暇をもて遊んでいる沖川(笑)もっとアグレッシュブに、もっと刺激的に、もっと楽しいものにチャレンジしたら?・・・という気持ちもあるが、よく考えたらそんな歳ではない。もういい大人、青年期のように暴走することはできない。暴走老人になってバイクをかっ飛ばすか(パッパラパーイエイ!)ということはしない。(やろうと思えばできるが・・・内緒)おとなしくしているのが今の自分にふさわしい。年相応の生き方もいいものだ。寒い冬、ひとしきり降る雨の中、傘をさして図書館に行く。図書館で目についた本を片っ端から読む。パラパラと20冊ばかり棒読みして「これだ」という本を熟読する。その中に「ニーチェの言葉」があった。
ニーチェの言葉を引用する。
愛は激しいほどよいというわけではないし、純粋だというわけではない。たとえば、ある特定の人に向けた熱烈なる愛というものは利己的な強い思い込みで膨れあがっている。
その思い込みとは、どうしてもその相手でなければ自分のこの熱情に応えられない。絶対にその人でなければ自分のこの愛の困窮を救うことができないという凝り固まった信念、深い狂言である。
だから、相手が振り向いてくれなければ強い苦悩が生まれる。もしも相手が振り向いてくれたとしても、幻滅と終わりのない欲求不満が待っている。
なぜならば、相手が現実に与えてくれる愛よりも、自分の激情が期待している狂言的な要求のほうが非現実的なほどに強いからだ。(以上ニーチェの言葉を引用)
「ニーチェの言葉」この文章を読んで「なるほど」と思った。私が日常感じていることをぴたりと言い当てているからだ。
「愛しすぎることの危険」これを私は毎日経験している。あなたももう一度「ニーチェの言葉」を読んでみてください。思い当たる節があると思いますよ。
私は「ニーチェの言葉」を読んでパスカルの言葉を思い出した、そしてその言葉と重なった。
私たちがどんな状態にいても、自然は私たちを不幸にするものである。私たちの願望が、もっと幸福な状態というものを私たちの心に描きだして見せるからだ。私たちが今いる状態に、私たちがいない状態の快楽を結び付ける。そして私たちは、その快楽に到達したとしても、その新しい状態にふさわしい別の願望を持つに至るからだ。(以上パスカルの言葉を引用)
欲深い人間。
幼児語でいえば、
「もっともっと」
私に愛をください。
うむ・・・
大人になろう。